十一のうち第 10 階梯
יְסוֹד
イェソド — 導管と室
受け取ることは伝達の終わりではない。変容の始まりである。
中心にある対比
ハヴァー・カドモナーの視座古典的な方向
- 伝達の導管。
ハヴァー・カドモナーの方向
- 生成の室。
古典的な方向イェソドは基礎であり導管である。その上のすべてが集められ、下へと届けられる階梯。忠実さに結びつけられるのは、運ぶものを変えてしまう導管は導管ではないからだ。
ハヴァー・カドモナーの方向第二の方向はイェソドを管としてではなく、その末端にある室として読む——到来したものが何かになるに足るだけ保持される、暗い場所として。届けることと育てることは別の働きであり、後者はそれが起きているあいだ目に見えない。
イェソド
古典的典拠この頁で用いられる図は意図して幾何学的である。定まった形が下降し、室がそれを覆い、その下から現れるものは異なる秩序をもつ。ここに生物学的な字義主義はなく、本書はそれを意図して避けている。
この比喩が守っているのは、実在する構造上の一点である。伝達についてのいかなる説明においても、到来と表現とのあいだに何かが起こり、その何かは受動的ではない。
だからこそ枠組みは、受け取ることが一つの活動だと主張する。受け手は光が跳ね返る面ではない。受け手とは、光が一つの生になる場所である。
受け取ることは伝達の終わりではない。変容の始まりである。
エイン・ソフにとっての含意
ハシディズムにおける展開無限者は室を要さない。有限なものが要するのである。時間も、隠蔽も、遅さも、被造の現実の欠陥ではない。受け取られたものが体現されたものになりうる、その条件である。
アヴォダー
ハシディズムにおける展開物事に、それが要する時間を与えること。アヴォダーの多くは、何も起きていないように見える期間を通して、受け取ったものを担い続けることにある。
典拠ハシュパアーの導管としてのイェソドは古典的である。室としての読みは、ここで用いられる解釈枠組みに属する。