十一のうち第 1 階梯
כֶּתֶר
ケテル — 意志と悦びの冠
何一つ欠けぬ方が、なお関係を望みうる。
中心にある対比
ハヴァー・カドモナーの視座古典的な方向
- 諸世界があれという意志。
ハヴァー・カドモナーの方向
- 知る者がいてほしいという悦び。
古典的な方向ケテルは רָצוֹן、意志である——あらゆる理由づけに先立つ、そもそも世界があれという決意。数えられるセフィロートの上に立つのは、それが体系の内で働く能力ではなく、体系が動いている理由だからである。それより上にそれを説明するものはなく、まさにそれゆえに、これは帰結ではなく意志なのだ。
ハヴァー・カドモナーの方向受け取る端から読めば、ケテルは תַּעֲנוּג、悦びである——何かが存在せよという意志ではなく、誰かが いるということへの悦びである。仕組みを創ろうという決意と、他者が在ることへの悦びとは、一つの行為でありながら、同じ運動ではない。
ケテル
古典的典拠主権はケテルの古典的な連想である——冠、頭の上にあるもの、生み出されるのではなく戴かれるもの。だが冠はまた関係でもある。民なくして王はなく、したがってこの語はすでに、その主権が主権であるところの誰かを含意している。
この階梯の二つの方向は、述べるのが異様にたやすく、共に保つのが異様に難しい。意志は、なぜ何かが在るかを説明する。悦びは、なぜ誰かが在るかを説明する。世界は体系として意志されうるとは考えられる。だが誰かがそこにいなければ、悦びの対象とはなりえない。
ハシディズムは断言する。その望みは必要ではない。無限者は創造によって完成されず、より自らになるのでもなく、孤独でもない。伝統が代わりに差し出すのは、より難しくより美しい観念である——欠如なき望み。
何一つ欠けぬ方が、なお関係を望みうる。
エイン・ソフにとっての含意
ハシディズムにおける展開エイン・ソフには何一つ欠けていない。ここに難しさがあり、要点もある。必要をもつ創造者とは、限界をもつ創造者であろう。したがって創造は必然でも、強いられたものでも、神にとって有用なものでもない。自由に意志されたのである。そして必要を伴わないその種の自由こそ、取引ではなく関係が可能となる唯一の条件である。
アヴォダー
ハシディズムにおける展開自らの存在が耐えられているのではなく望まれているものとして生きること。この階梯におけるビトゥールは自己抹消ではなく、望まれているということが自分で手配したものではないという認識である。
典拠ケテルにおけるラツォンとタアヌグの語法は、ハバド・ハシディズムで詳細に展開されている。