十一のうち第 6 階梯
גְּבוּרָה
ゲヴラー — 壁と境界
ハラハーは器であって、愛の敵ではない。
中心にある対比
ハヴァー・カドモナーの視座古典的な方向
- 限る壁。
ハヴァー・カドモナーの方向
- 守る境界。
古典的な方向ゲヴラーは制限、尺度、峻厳、審判である。すなわち限界そのものの設定。ヘセドが是と言うところ、ゲヴラーは ここまでで、それ以上はない と言う。それなくしては何一つ形をもたない。
ハヴァー・カドモナーの方向外から読まれた壁は排除である。同じ壁が内から読まれれば庇護である。第二の方向はゲヴラーを、親密を可能にする境界として読む——そうでなければ現前しえない者のために果たされたツィムツームとして。
ゲヴラー
古典的典拠הֲלָכָה という語は 歩む に由来し、その連想は精確である。道は、その方向によると同じだけ、その縁によって定義される。
法と愛は逆方向に引き合い、関係はその構造が緩むほど真正になる、という近代的な想定は根強い。典拠は反対の立場をとる。そしてゲヴラーの第二の方向こそ、その論が最も直截に述べられる場所である。構造こそが、関係を持ちこたえうるものにする。
これは審判を優しさへと和らげはしない。ゲヴラーは峻厳なままである。第二の読みが加えるのは、その峻厳が 何のためか についての説明である。
ハラハーは器であって、愛の敵ではない。
エイン・ソフにとっての含意
ハシディズムにおける展開最初のツィムツームはゲヴラーの行為であり、この文献のどこに描かれたものよりも寛大な行為である。制限とは、無限者が他者のために場を空ける仕方である。
アヴォダー
ハシディズムにおける展開一つの限界を誠実に保つこと。誠実さとは他所への欲望の不在ではない。関係がそのうちで生きうる境界の現前である。
典拠ツィムツームをゲヴラーと同一視することはルリア的カバラーにおいて古典的であり、ハバドの思想で展開されている。