流出の秩序
קַו
空虚を貫く線
無限者が有限になるのではない。無限性は、有限な現実が受け取りうる形において自らを顕わす。
量られた顕現
古典的典拠ツィムツームによって空けられた場へ、一本の光の線が入る。それは קַו ——線、光条、測り縄——と呼ばれ、この形象のどの要素も働きをもっている。
線は方向をもつ。無限定の光はもたない。線は太さをもつ。すなわち尺度をもつ。そして線は 細い。それはまさに全体ではなく、だからこそ何かでありうる。
カヴは、劣った存在のための劣った神ではない。尺度という条件のもとにある同じ光である。変わったのは与える者ではなく、与えが受け取られうる様態である。
無限性が呼びかけうるものとなる。
無限性が呼びかけうるものとなる
ハシディズムにおける展開カヴ以前には、語るべきことも、語りかける相手もない。無限性は取っ手を与えない。顕現が量られた形をとった瞬間、驚くべきことが帰結する——無限者に呼びかけうるようになるのである。
トーラーが可能である深い理由はここにある。神的知恵が有限な言語に入ることは、光が量られた線に入ることと同一の運動である。いずれも源の減損ではない。両者はともに関係の条件である。
諸世界の連鎖におけるあらゆる階層は、同じ原理のさらなる実例である。世界とは尺度の一段階である。セデル・ヒシュタルシェルートは距離の梯子ではなく、受容性の連なりである。
線は細い。そしてそれは光の限界ではない。光が到来しうるための条件である。
言語、トーラー、階層
ハシディズムにおける展開ある主題を無限によく知る教師は、無限を生徒に伝達するのではない。有限な定式を組み立てる。それは正しく受け取られるなら、彼の知るすべてへと開かれてゆく。定式はより小さな真理ではない。特定の形をもつ扉である。
この類比はハシディズムで絶えず用いられ、しかも受け手におもねらないがゆえに成り立つ。生徒に与えられるのは少なくではない。生徒に与えられるのは、実際に受け取りうるものである。
顕現が拡散的ではなく構造的であるのも、このためである。構造は無限性との妥協ではない。構造こそが、無限性を伝達可能にするものである。