エイン・ソフ

アヴォダー

מִצְווֹת

物質が器となるとき

物質的な対象は物質であることをやめない。その物質性が、神的意志の場となるのである。

器としての物質

ハシディズムにおける展開

テフィリン

獣の革を、なめし、裁ち、黒く染め、腕と頭に結ぶ。そのどこも物質性を減じはしない。変わるのは、この物質がいまや言葉を収めていること、そして知性と腕とが、その言葉の語る内容に結ばれていることである。

物質的な対象は物質であることをやめない。その物質性が、神的意志の場となるのである。

宗教は物質から遠ざかることによって高めるのだ——霊的なものとは、物質を剥ぎ取った後に残るものだ——という想定は根強い。ハシディズムはこの筋書きを明示的に退ける。そしてその退けが最もよく見えるのがミツヴォートである。

ミツヴァーが心だけで果たされることはほとんどない。それは対象を、場所を、時を、身体を要する——そして対象はミツヴァーの象徴ではない。対象がミツヴァーなのである。

これは宇宙論全体の第二の方向が、日常の生活に到着したものだ。下降は物質で終わった。返りは物質から始まる。

下降は物質で終わった。返りは物質から始まる。

象徴ではない

ハシディズムにおける展開

革が革のままであることが肝要である。もしテフィリンが霊的な物となり、獣の皮であることをやめたなら、達成ははるかに小さい。物質世界は含み込まれたのではなく、逃れられたことになるからだ。

典拠が描くのは、融合なき同居である。対象はその物理的性質のすべてを保ちながら、同時に神的意志が果たされる場となる。何も滅びず、何も変質しない。

だからこそ伝統は、寸法や材料や技法の細目についてこれほど臆さずにいられる。物質的な仕様は包装ではない。それが中身である。